うそつきの人形


この間の日曜日、お姉ちゃんと一緒にお婆ちゃんの家に行ったんだ。

お婆ちゃん家は電車に少し乗った先にある。
そんなに離れてはいないのに、どこか別の世界みたいで。
たぶん、電車で見えない世界の壁みたいなものを通り抜けてるんだと思う。

お婆ちゃんの家に入ると、ちょっと苦くて甘いようなニオイがする。
お姉ちゃんはお線香のニオイだと言っていたけれど、これはたぶん不思議な世界の特別なニオイ。
不思議な世界には不思議なおもちゃがたくさんあって、ときどきお婆ちゃんはそれをわたしとお姉ちゃんにくれる。

「ねえねえ、果澄。この人形かわいくない?」
お姉ちゃんがそう言ってわたしに見せてきたのは、ふわふわ優しい水色のドレスを着た金髪のお人形だった。
家にある着せ替えのできるお人形より大きくて、赤ちゃんくらいのサイズはありそうな気がした。
ガラスでできた深い青色の目がお天気のいい日の海みたいだ。

だけど、わたしはもう四年生なんだから。
十歳になって、もうおねえさんなんだから、お人形では遊ばないんだ。

そう言うとお姉ちゃんは、ふうん、と首を傾げてお人形を抱きかかえてじっと見つめた。
それからちらっとわたしの方を見る。
「いいの?」
「え、なにが」
「おや、萌ちゃんその子が気に入ったのかい?」
お婆ちゃんがお姉ちゃんの手元を覗き込む。
お姉ちゃんがお婆ちゃんに見えるように手元のお人形を傾けると、黄色っぽい部屋の明かりがお人形の目に反射した。
それからふたりは意味ありげに目を合わせ、小さく笑った。
わたしにはなんだかよくわからない。
「良かったら連れて帰ってあげとくれよ」
「わあい。ありがとう!」
お人形がお姉ちゃんに抱きしめられる。

わたしは、もうおねえさんなんだから。
だけど、もう中学生のお姉ちゃんがあんなにお人形で喜んでいるのはどうしてなんだろう。
畳についてた手のひらにいつのまにか力が入っていた。
あれ?
ふと、こっちを見ていたお婆ちゃんと目が合う。
にこにこやわらかい笑顔は、何もかもわかっているようで、何故だかわたしはとっさに目をそらしてしまった。
不思議な世界のニオイが鼻につんとした。

家に帰るとお姉ちゃんはリビングのテーブルの上にお人形を置いたまま、自分の部屋に行ってしまった。
せっかくもらったのに。
お人形はテーブルの上でこてん、と頼りなさげに座っている。
わたしはテーブルの前に膝をつき、そっとお人形の髪に触れてみた。
やわらかい。
この髪を撫でて、そうっと櫛でといて、お団子にしたら可愛いだろうか。
それともポニーテールかな。
お洋服もお母さんに言ったら新しいのを作ってくれるかな。
何色が似合うだろう。
この水色のドレスも目の深い青とすごく合っていて可愛いけれど、優しい顔をしているから淡い黄色なんかも似合うかもしれない。
そうだ、きっと髪の金色と合うに違いない。

「果澄?」
声をかけられて我に返った。
とっさにお人形に触れていた手をひっこめてしまった。

怪しく思われただろうか。
別に、やましいことなんて何もしていないのに。

「な、なにお姉ちゃんどうしたの」
「いや、お人形置きっぱなしだったなと思って」
お姉ちゃんはわたしの行動には特に何も言わず、テーブルの上からお人形を抱き上げた。
「綺麗よね」
そう言ってお姉ちゃんはちらりとわたしの方を見た。おばあちゃんの家でそうしたみたいに。
「う、うん」
ああ、大人の目だなと思った。

ベッドに入ってなかなか寝付けない。
よくわからないもやもや。
お人形。
お姉ちゃんと、お婆ちゃんの意味深な目。
わたしには、わからない。

朝、リビングに行くとお姉ちゃんが先に起きていた。
何となく一人で勝手にもやもやしているのが気まずくて、目を合わせられず小さな声で「おはよ」とだけ言った。
でもお姉ちゃんはわたしの様子に気付いてるのか気付いていないのか、全く気にしていないふうだ。
ホットミルクの入ったお気に入りだという牛柄のカップ片手に話しかけてきた。
「ねえ聞いて果澄。あの人形なんだけどさ」
人形、と聞いて胸のあたりがざわざわ騒ぐ。青いガラスの目が脳裏をよぎる。
「夜中、なんか物音がするなあと思って見たら、なんと、なんと。動いていたのよ!」
「……お姉ちゃんまた寝ぼけたの」
わたしは溜息をついた。
お母さんの用意してくれていた朝ごはんをテーブルへ運ぶ。
それを手伝うでもなく、わたしの後を歩きながらお姉ちゃんは少し芝居がかった口調で言った。
「この間のとは違うんだって! もうあたし怖いなあ。あの人形」
「……」
何といってもお姉ちゃんには前科がある。
夜中に目を覚ましてベッドからおりたら何かに足をつかまれて転んだのだけれど、よく見ると実はベッドからずり落ちていた毛布に足をとられただけだったとかいう、そのテのことでよく騒いでいるんだ。

「ほら二人とも遅刻するわよ」
お母さんの声で二人同時に時計を見る。人形の話はそこまでになった。
わたしとお姉ちゃんは朝ごはんを押しこむように食べて、競うように着替えを済ませ、家を飛び出した。

夕方。
いつものように学校から帰ってくると家には誰もいなかった。お父さんはまだお仕事だし、お母さんはお買い物。お姉ちゃんは塾。
静かな家の中で、何かに呼ばれるようにわたしはお姉ちゃんの部屋へ行く。
心臓がいきなり大きくなったみたいに胸が苦しい。誰もいないのに自然と音をたてないように歩いてしまう。
そうっと扉を開いた。
見慣れたお姉ちゃんの部屋。
そこにいる人形。
部屋の入り口で深呼吸をした。
そして部屋の中には入らないで、わたしは扉を閉めた。

家族がだんだん帰ってきて、家の中が賑やかになる。
「あ、果澄」
 晩ごはんを済ませ、キッチンに食器を運んでいると、先に片付けていたお姉ちゃんが呼びかけてきた。
「あの人形、さ。今日、果澄の部屋に置いててくんない?」
「え」
わたしから目をそらして、首のうしろに手を当てながら言葉を選ぶようにそう言うお姉ちゃんの様子は明らかに変だった。
怖がっているのが恥ずかしいからだろうか。
「ていうか、果澄にあげるよ、あれ」
驚いて手を滑らせるところだった。
「なんで?」
「あーでも今日一晩置いてみて怖くなかったら、でいいよ」
そう言って意地悪そうにニヤリと笑う。
からかうような口調にちょっとだけむっとした。
そんなの、全然怖くないのに。
わたしは何も言わず水でお皿の表面を軽く流した。

寝る頃になって、お姉ちゃんがお人形をわたしの部屋に持ってきた。
無造作にわたしのベッドの枕元に座らせると「じゃ、おやすみ」とだけ言って出て行ってしまった。

扉が閉まるのを確かめてから、そっと金色の髪の毛に触れてみる。
本当に、もらえるのかなあ。
動いたって、わたしは全然かまわない。

小さな豆電球だけを残して部屋の明かりを消す。
今はお姉ちゃんと別々の部屋に寝ているけれど、昔一緒の部屋で寝ていたときから豆電球をつけるようにしていた。
お姉ちゃんが怖がるからだ。
今はもうわたしだけだから真っ暗にしても大丈夫なのだけれど、ずっとそうしていたから消してしまうと逆に落ちつかなくなってしまった。

豆電球の明かりだけを頼りに、お人形を枕元から布団の中へそっと寝かせる。
水色のドレスをちゃんと整えて。
髪の毛をわたしが踏んでしまわないように広がっているのをまとめて。

オレンジがかった弱い光がお人形の目を照らしてなんだか不思議な色になる。
「……おやすみ」
お人形からは、お婆ちゃんの家みたいな不思議な世界のニオイがした。

朝。
特に夜目覚めることなく、ふつうに朝が来た。
なんだか拍子抜けする。お人形は寝る前に比べてちょっと乱れてはいたけれど、特に異変はないようだ。

カーテンを開けると朝日が一気に部屋に広がって、お人形の髪も目も綺麗に輝く。
枕元にきちんと座らせて、頭を撫でてみた。
動かないのが少し残念にも思えてしまった。

「おはよー」
リビングに行くと、既に着替えて朝ごはんのトーストをかじっているお姉ちゃんがいた。
「おはよ。人形どうする?」
「ほ、ほんとにもらっていいの……?」
「お? うん。いいよ」
何故かちょっと意外そうな顔でお姉ちゃんは頷いた。

本当に、お姉ちゃんの部屋ではお人形は動いたんだろうか。
だとしたら、わたしの部屋では動かなかったのは、何でなんだろう。
それともわたしが気付かなかっただけなのかなあ。

「おかーさーん。あたしの部屋の豆電球買ってくれたー?」
お姉ちゃんが台所のほうにいるお母さんに声をかける。
お母さんが何か答えたけれどその声はこっちには届いていない。
もー、と不満そうな声を漏らしながらお姉ちゃんは席を立ち、お母さんのほうへ行った。
その様子を、寝起きの頭でぼーっと眺めているうちに、はたと気付く。

「お姉ちゃん」
「ん」
「お姉ちゃんの部屋、電球切れてたんだね」
こちらに戻ってきたお姉ちゃんに切り出してみた。

一瞬きょとんとして、それから何かに気付いたように口を小さく「あ」の形に開けて、お姉ちゃんはわたしの顔を見た。
そして照れたように笑って小さく舌を出した。
「あたし、嘘下手だねえ」
豆電球の弱い光で浮かんだお人形の姿を思い出す。
でも、あの光がなかったら?
お姉ちゃんの部屋は真っ暗闇になっていたはずなんだ。

「果澄がお人形で遊ばないなんて言うからさ」
もうおねえさんなんだから。って、わたしはお婆ちゃんの家でそう言った。

わたしも嘘をついてた。
お姉ちゃんよりずっと下手くそな嘘。
それはばれていたのに、きっとお姉ちゃんなりに知らないふりをしてくれていた。
嘘なんかついてまで。
かなわないなあ。
だけど、お婆ちゃんやお姉ちゃんとわたしは違うんだって、いつのまにか感じていた壁がぽろぽろと崩れたような気がした。
お婆ちゃんはどこまでわかっていたんだろう。
あの不思議な世界に住むお婆ちゃんなら全部お見通しに違いない。

「ありがとう」
「ちゃんと大事にするんだよ?」
「うん」

次のお休みには、またお婆ちゃんの家に行こう。不思議な世界に、壁を越えて。



【了】 
 
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